かごしま歴史街道の第16回において、薩摩軍楽隊と吹奏楽の話を取り上げましたが、具体的な内容が記載された文献に巡り合えたこともあり、吹奏楽の導入の背景や動機を再考したものをより詳しくご紹介いたします。
■英国艦隊からの音色
1863年7月、生麦事件をきっかけとする薩英戦争の際、鹿児島湾に集結していたイギリス艦隊から聴こえてきた軍楽隊の音に薩摩藩隊員が感銘を受けた、という説が一般的に知られています。三浦俊三郎著『本邦洋樂変遷史』には、【文久三年、生麦事件発生によって英國艦隊の襲撃を受けた際、海上遥かに敵艦内に起る嚠喨たる軍楽隊の音を聞き、其の勇壯なる状態を目撃し其感激に依って逸早く劃時代的な此の計劃を起した】とあります。
この史実を結びつけるものとして、史談会・八木昇著『史談会速記録(薩英戦争見聞録)』に、薩英戦争体験者の市木四郎と寺師宗徳の談話が所収されており、艦上の奏楽が事実であったことが理解できます。
(談話)
これを一読する限り、『本邦洋樂変遷史』の引用文とは趣が異なるものの、実際に艦上で演奏が行われていたことは史実として残っていますが、鹿児島の城下は砲撃によって焼かれ、激戦であった状況下で耳に届く奏楽の音は薩摩藩士の胸中に様々な感興を呼び起こしていたことが伺えます。
西欧列強の軍事力の質の高さにはこの軍楽も含まれ、薩摩藩の英国式軍楽の導入は和解後に急速に接近した両者の政治的背景が底辺にあったのかもしれません。
■吹奏楽伝習の直接の動機と軍楽隊
『國歌君が代の由来』に、薩摩藩士の肝付兼弘が明治38年11月3日付けの「日州新聞」紙上に発表した談話を、音楽取調係出身の作曲家・小山作之助に写し送った手紙が所収されており、薩摩藩の吹奏楽伝習の直接の動機が記されています。
【尋で明治2年4月軍隊編成上疑問の節々多く、質問旁實地練習を思ひ立ち、公許を得て在横濱英國陸軍大隊長リウテナント・コロネル・ローマン氏※に就き、4月より11月まで勉強した。或日大隊が、營外行軍をした時隊の先頭に楽隊の節面白く奏楽して行くのを見た。當時我國の樂隊といふものは、太鼓に笛でヒュー・ドンドンとやったものであるが彼の樂隊に至つては、見も知らぬ楽器を澤山に用ゐて、賑やかに面白く勇ましく奏づるのであるから、歩調の整正は勿論、軍隊の士氣を鼓舞するに非常の功ある事を感じた。そこで我軍楽隊にも斯云ふ風にやつて見たいものと思ふ念が禁じ得られぬので、大隊長の許可を得て、樂隊長に傳習の事を頼み、當時在京川村興十郎、野津七左衛門氏等の率ゐる鹿児島藩兵隊中より、歯の能く揃ふた年少の藩士20名を選抜し築地邊の西洋店から楽器を仕入れて早速横濱に出向せしめた。】
※ローマン氏とあるのは、肝付兼弘の誤謬であり、正しくは“ノーマン氏”
薩摩藩士から選別された伝習生らは早速練習にとりかかりましたが、その様子を伝習生のひとりで、のちに海軍軍楽隊のクラリネット奏者になった高崎能行の談話が、小田切信夫『國歌君が代講話』にあり、当時の伝習の様子がよくしのばれています。
【フェントンについて習った頃は、初めは右向け左向けの調練と信號ラッパの吹き方位でしたが、明治3年に音楽器が参りましてから軍樂を習ひました。(中略)それから素足に草履をはき、尚腰に用心の草履もぶら下げ、そのいでたちでフリュートなど手にしたものでした。】
さて、薩摩藩の洋楽伝習生の噂は、たちまち在留外国人の間でも広まり、日本発の英字新聞記者のJ.R.ブラックは『ヤング・ジャパン』で次のように翻訳しています。
【近年、横浜と東京で、イギリス陸戦隊の軍楽隊の演奏で陽気になる機会がしばしばあった。1870年には、国内で洋楽器を相当に演奏する日本人は1人もいなかった。第10連隊の軍楽隊長フェントン氏は、数名の薩摩人の教育を引き受け、すでに洋式に作った日本製の横笛、ラッパ、太鼓などで始めていた。ところが7月31日に藩主※がロンドンから帰り、その際、ディスティン商会から一楽隊に要する最高級の連隊楽器を一揃え持って帰ってきた。また9月7日には当時「薩摩軍楽隊」と呼ばれていた若い軍楽隊が、宵祭りに公園で演奏した。】
※藩主とあるのはブラックの翻訳の誤謬で、実際は船の名前だそうです。
文中に出てくるディスティン商会は、楽器メーカーとしては存在しておらず、おそらく吹奏楽器の製造が得意なベッソン社の楽器等を扱う問屋であろうといわれています。
この楽器が届くまで、隊員は国産の手造り楽器を交えて、熱心に学んだ様子が英字新聞の『ファー・イースト』に、ブラックによって写真入りで紹介されています。
■日本で最初の洋式吹奏楽団のメンバーについて
現代に歴史を継ぐ、日本で最初の洋式吹奏楽団のメンバーについては、小山作之助が『國歌君が代』に載せているものの、様々な説がありその人数が定かではありません。
肝付兼弘や大山巌なども発表資料によって、記述する人数が異なっていますが、薩摩藩の菩提寺である曹洞宗大圓寺に建立された献灯に、30名の隊員の名前と担当楽器が刻まれています。
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この年表をご覧いただくと、楽隊員一行は東京と鹿児島を度々移動していることがわかります。薩摩楽隊は廃藩置県後、水兵本部に所属する海軍軍楽隊と御親兵楽隊として残り、ラッパ兵を吸収して陸軍教導団楽隊に二分され、わが国の洋楽界(吹奏楽界)の先進集団として活躍することとなります。
◆参考文献(全て国立国会図書館蔵)
中村理平著『洋楽導入過程の研究:先達者の軌跡』
三浦俊三郎著『本邦洋樂変遷史』
八木昇著『史談会速記録(薩英戦争見聞録)』
小田切信夫『國歌君が代講話』