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かごしま歴史街道

薩摩軍楽隊と吹奏楽
 〜薩摩で生まれた吹奏楽〜


ジョン・ウィリアム・フェントン
イギリス第10連隊第1大隊軍楽隊長
アイルランド出身 

 記念式典、地域行事、学校の式典など年間を通して、様々なシーンで活躍することの多い「吹奏楽」。多彩な音色と音域がブレンドされ、演奏編成や曲のジャンルもバリエーション豊富な吹奏楽は、クラシックでは味わえない感動が得られます。
 我が国初の吹奏楽は、薩英戦争後の日英同盟締結をきっかけに、横浜の地においてイギリス軍楽長のジョン・ウィリアム・フェントンに伝習を受けた「薩摩藩洋楽伝習生」がそのさきがけとなって幾多の歴史を折り紡いできました。

■生麦事件と薩英戦争
 文久2年(1862)8月、幕政改革を成功させ帰途に就いた島津久光公の行列が横浜近郊の生麦村に差し掛かった時、イギリス人が行列に馬を乗り入れたところ、無礼者としてお供の薩摩藩士が刀を抜いて襲い掛かり一人を殺し、二人に重傷を負わせる事件が起こりました。世にいう「生麦事件」です。この事件に対してイギリスは、幕府に謝罪と10万ポンドの支払いを、薩摩藩に対しては藩士の処刑と2万5千ポンドの賠償金を求めたのですが、薩摩藩はこれを拒否したことから翌文久3年6月27日(現在の暦では8月11日)に、イギリス代理公使ニールが、艦隊7隻を率いて鹿児島に乗り込み城下正面に停泊させ藩と直接交渉にあたりました。
 ニールは薩摩藩に再三回答を迫るも交渉は進展せず、7月2日イギリス側が薩摩藩の汽船3隻の拿捕に踏み切ったことで、薩摩藩は開戦を決意し、同日正午に天保山砲台の豪放を合図に一斉に攻撃を開始したのです。
 二日間の砲撃戦の結果、イギリス艦隊は薩摩の砲台と交戦しながら南下し、鹿児島市七ツ島付近にて戦死者の水葬と船体の応急処置を済ませ、7月4日鹿児島湾から撤退していきました。この戦で城下や集成館などが焼けてしまったものの、お互いの力を再認識した薩摩藩は、生麦事件の賠償金を支払い、殺傷事件の犯人捜査の約束を取りまとめることでイギリスと和解し、以後親密の度を深めていきました。

■薩摩藩洋楽伝習生の発足
 薩英戦争の戦果は決して我が藩に有利であったとは認められず、機を見るに敏感であった我が藩の有識者はこの戦を契機に、あらゆる面でイギリスと手を握ることとし、ことに軍隊に関しては完全に英式に改めています。ついでに軍楽隊を置くこととし、慶応3年3月、鎌田新平を楽長とする薩摩藩士30余名で構成された最初の軍楽隊「薩摩藩洋楽伝習生」が薩摩藩に設置されたのち、洋式化推進のための指導を受けるため、横浜に派遣されます。

吹奏楽では必須ともいえる楽器の一つ「ユーフォニアム」
美しく幅広い音色は、まるでビロードのよう。

 当初は楽譜の読み方やビューグルと呼ばれる信号ラッパ、和製楽器を使った練習が主でしたが、藩主は隊員が使用する楽器の注文をフェントンに託し、イギリスのベッソン商会から楽器が届くと伝習生の寄宿舎であった横浜・本牧にある「妙香寺」にて、1日2回の指導を受けます。連日連夜の猛練習の末、明治3年8月に山手公園にてフェントンの指揮により、英国軍楽隊と共演しています。

■優秀だったサツマバンド
 英国人の記者のジョン・レディ・ブラックによって明治3年(1870)5月20日に創刊された英字の挿絵入り隔週新聞のある日の紙面に、「サツマバンド」とタイトルのつい妙香寺境内に整列した薩摩藩士の写真があり、この写真は、日本で最初の軍楽隊伝習の記録写真として有名なものです。ブラックがこの写真に添えて書いた記事では、次のようにその優秀さに驚きの念を表しています。
「薩摩藩に属している青年達、彼らは武士であるが、今、第10連隊第1大隊の楽長フェントン氏より外国の音楽を学んでいる。日本で始めて正式の軍楽隊を作るという試みを不安に思ったがもうその心配はない。フェントン氏から1日2回の指導を受けて、すでに楽譜を読んだり書いたり、上手にできるほどに力をつけた。彼らの書いた楽譜は、もう我々の手写の最も良い出来のものと同じであり笛やラッパで、やさしい節を奏することも上手に出来て、カメラマンが準備する間に整列し、マーチをいくつか演奏した。鼓手も上手だった。彼らは容貌もすぐれて利口そうだった。最も驚いたことは、楽器の大部分が日本で作られたものであったことだ。これらは江戸や横浜で作られた。この楽隊のために軍楽隊の使う楽器のひとそろいが、フェントン氏からロンドンのディスティン社へ注文されており、その到着が毎日待たれている。そして、フェントン氏は、生徒たちは、その到着から3ヶ月以内で皆の前でやさしい曲の演奏ができると期待している」(「ザ・ファースト・イースト」1870年7月16日号) この妙香寺におけるフェントンの薩摩藩軍楽隊役30名の指導はよく知られており、日本の洋楽史の第1章とされています。

■フェントンと君が代
 明治2年(1869)8月、当時のイギリス女王ヴィクトリアの次男エディンバラ公が来日することとなり、来賓を迎える儀礼音楽の必要性が生じたものの、当時の日本には国歌の概念がなかったため、フェントンは薩摩藩の砲兵隊長であった大山巌に日本の国歌制定を勧めます。
 大山は薩摩琵琶の曲「蓬莱山」から一節を選んだものをフェントンが作曲し、明治3年 (1870) 10月2日に明治天皇の天覧の折、越中島で行なわれた四藩操練において、薩摩藩軍楽隊によって初演奏をされています。しかしながら、日本語のわからないフェントンの曲は歌詞と合わず聞いていて何の音楽だかわからないと不評だったことから、海軍省が再度宮中様式で作曲するようにと依頼します。
 その結果、明治13年に宮内省雅楽課の一等伶人・林廣守の撰によって、伶人・奥好義の作曲したメロディーが採用され、それをフェントンの後任の海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが吹奏楽曲に編曲し、同年11月3日、天長節御宴会において宮内省雅楽部吹奏楽院によって初披露されています。
 フェントンが作曲した君が代は、鹿児島県警警察音楽隊や、県内の声楽家などの協力を得て忠実に再現され、その音源は鹿児島市の「維新ふるさと館」で試聴することができます。
 明治維新にまつわる偉人や史実の多く残る鹿児島ですが、「吹奏楽」という音楽文化の礎もここ薩摩であり、フェントンと共に多くの輝かしい功績を残しています。
 「薩摩藩洋楽伝習生」が築いた吹奏楽の歴史を紐解いてみると、ブラスの響きを通して先人たちの思いを肌で感じることができるかもしれませんね。

横浜市にある、本牧山妙香寺境内にある「吹奏楽発祥の地記念碑」 
同じく妙香寺境内にある『君が代由緒地』と書かれた石碑



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