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かごしま歴史街道

天文館と山形屋の歴史散歩
  〜重豪の足跡を訪ねる〜(前篇)


重豪と文化政策


重豪が、安永2(1773)年に藩の学校として開設した造士館と演武館。造士館では8歳から22歳ぐらいまでの武士の子弟が朱子学などを学び、、演武館では剣や弓、槍、馬、銃などの稽古が行われていました。
現在は、中央公園に石碑が建っています。

 南九州随一の繁華街・天文館。
 鹿児島の商業地として知られるこの地区は、近世以降島津氏が居城とした城下町の中心部でした。江戸時代には多くの武家屋敷が立ち並び、現在飲食店が軒を連ねる文化通りは、「日置裏門通り」と呼ばれ、日置島津家の屋敷の裏門へ面していた通りだったといわれています。
 「天文館」という通りの名前は、安永8年(1779)に島津25代藩主重豪が天体観測のための明時館をおき、薩摩暦と呼ばれる独自の暦を制作させていましたが、明時館は別名「天文館」とも言われ、これが現在に由来しています。下級武士の屋敷町だった頃は「中福良通り」と呼ばれていましたが、大正時代に入ってから正式に「天文館通り」と名付けられ、現在は通りをはじめ繁華街一帯が天文館という名称で知られています。
 明時館をはじめ、医学院や造士館、演武館など文化施設の充実に努めていた重豪は『蘭癖大名』と異名を持つほど海外文化に興味を示し、中国語学・歴史学・植物学・蘭学に至るまで広い分野に興味を抱き、数多くの書物の編纂出版を手がけるなど、江戸後期の薩摩の文化に多大な功績を残しました。

黎明館敷地内にある「聚珍寶庫碑」(しゅうちんほうこひ) 隠居屋敷があった江戸高輪の薩摩藩屋敷の別邸内に、重豪自らが収集した数多くの中国や西洋関係の文物を保存する土蔵を持っており、その蔵の名前を聚珍寶庫と名付けました。重豪の聚珍寶庫は、我が国の博物館の先駆的なものであるといわれています。

 様々な近代化政策を打ち出し、藩の文化水準の向上を図ったハイカラな殿様でしたが、それらの功績は今日でもあまり称賛されていません。むしろ、種々の文化政策が結果的には藩の年収およそ40年分にあたる500万両の借金を生み、薩摩藩の財政逼迫を招いたという負の側面だけが注目され、歴代藩主の中でも非常に歴史的評価の難しい人物であったといえます。

重豪と商人誘致政策

 重豪は、開化政策の一つとして「商人誘致政策」を打ち出していましたが、この時に薩摩に移住したのが出羽山形の紅花・呉服太物商人の源衛門です。
 安永年間、薩摩藩は一本帆前船で交易を行い、物資の集散地であり天下の台所といわれる大坂(現在の大阪)に蔵屋敷を置き、専売品の黒糖や菜種油・鰹節などを売りさばいていました。この薩摩商人に大変な関心を寄せていた源衛門は、折しも重豪の誘致政策を聞きつけ、安永元年(1772)35歳の時に意を決し薩摩へと移住してきます。
 源衛門一家が居住したのは、現在の山形屋社屋がある辺りで、当時は「木屋町」と呼ばれ、今でいう建具屋が多かったためだったようです。この木屋町は文政4年に下町で発生した油屋の大火事をはじめ度重なる火災が発生しており、それを案じた重豪は、縁起担ぎのために一帯の地名を「金生町」(かなふまち)と呼び改めたといわれています。
 故郷山形の地を離れ、文化も風俗も気候も違う薩摩での商いは、困難や労苦など計り知れないものだったに違いありませんが、源衛門の資質や進取の気性が、鹿児島の地に力強く根を張り山形屋創業の礎を築いたのかもしれません。
 山形屋という社名は、この源衛門の出身地の山形にちなんでのことですが、『やまがたや』ではなく『やまかたや』と発音されているのは商売繁盛にふさわしくないため、濁音を外してあるのも、その理由のひとつだそうです。


「天文館と山形屋の歴史散歩」後編へつづく



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