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かごしま歴史街道

シラス台地の水事情


 大隅半島の中心部に位置する笠野原台地は、南北16km・東西12kmに広がる総面積6,300haのほぼ三角形の広大なシラス台地です。
 この広大なシラス台地は、シラス特有の浸透性により保水力の乏しい、いわゆる乏水地であったため台地開発は水との闘いだったといわれています。
笠野原の地下水面は著しく深く、北部では約90m井戸を掘っても水が出ないため、南部に掘られた深さ80m余りの共同井戸に大人12〜13人以上が集まり、4〜5人が交代で汲み上げ、水樽いっぱいに汲んだ水を牛馬に負わせて家まで運んだものだそうです。そのため、一家中一人は一日中家と井戸を行き来し、水汲みに時間を費やしていました。
そんな大変な水事情の笠野原には「たたき水」という言葉があります。水に乏しい笠野原の集落の各戸には、天水利用も併用するために、大きな水溜めの甕が置かれていました。
その昔、県外のお役人さんが視察のために笠野原を訪れた際に、宿屋に宿泊した時のことです。
朝、おかみさんが朝の支度に使う水を汲む時に、甕のふちをカーンと一つ叩きました。洗い物をする時の水を汲む時にもまた、甕のふちをカーンと一つ叩きます。水を汲むたびにいつもおかみさんは甕のふちを叩いているのです。
それを見ていたお役人さんは、
「なるほど・・・水に困っている集落の人たちは、水を汲む際に感謝の気持ちを込めて甕のふちを叩く習慣があるようだ」
と思ったそうですが、実はそうではなく甕を一叩きしてわいたボウフラを沈め、その間に上層水を汲んでいたのでした。この様子を笠野原では「たたき水」と呼んでいました。
 さて、このような厳しい水事情に苦しんだ笠野原の開発の歴史は、慶長2年の豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、島津義弘が捕虜として連れ帰った李朝の陶工たちの子孫が移住したことに始まります。その後1780年以降、干害に強いサツマイモが伝播したことなどから開発が本格化しました。
 大正13年(1924)上水道敷設事業が認可され、翌年には工事を着手しました。水源は台地西北方の高隈山地の川で、この川から鉄管で水を引いています。昭和2年(1927)には水道使用が始まり、ようやく飲料水の心配はなくなりました。
 上水道敷設事業とほぼ同時期に、耕地整理事業も始まり、特殊な区画を除き耕地区画は3反部を標準とし、30間(約54m)の正方形として、どの畑も必ず道路に面するようにし、格子型の整然たる道路網が完成しています。
 第二次世界大戦後、台地の農業を発展させるため、畑地灌漑事業が国営第一号として昭和30年より実施されることになりました。昭和40年には、串良川上流にダムを建設し、その用水を地下の導水路やパイプラインによって配水しています。
 現在の笠野原台地では、収益性の高い農業経営を行っている農家も多く、様々な品種のサツマイモをはじめ瑞々しい緑黄色野菜、花持ちのよいスプレーギクやバラなどの花木、牧草や青刈りとうもろこしなどの飼料作物など、台地農業は飛躍的に発展しています。
 かつて「不毛の土地」といわれていた笠野原台地ですが、先人のたゆまぬ努力により水事情は解消し、四季を通じて様々な農作物が生産される、実り豊かな大地として生まれ変わっています。



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