平成22年に姶良・加治木・蒲生の3町が合併し、恵の海の錦江湾・緑豊かな自然・歴史的文化遺産と、魅力あふれる人口約7万6000人の「姶良市」が誕生しました。
姶良市には186件の文化財・史跡があり、国指定のものに蒲生八幡神社の日本一の大クス、大口筋白銀坂、龍門司坂、日本儒学の発展に貢献した南浦文之墓などがあります。
◆舜清と蒲生八幡神社
蒲生の初代領主で、藤原氏の末裔・藤原舜清(ちかきよ)は、平安末期の保安元年に垂水に下向し垂水城を構え、その後保安4年(1123)に執印行賢から蒲生・吉田を譲られ、大分県宇佐市にある「宇佐八幡神」を勧請して蒲生八幡神社を創建しました。
舜清は據り所として蒲生城を築きましたが、普段は下久徳の「蒲生どん屋敷」に住み、また、姓を蒲生と定め、蒲生家初代となって蒲生・吉田を治めています。
戦国時代、島津氏との激しい戦いの末に蒲生氏は敗れ島津氏の軍門に下り、弘治3年(1557)に宮之城に退去させられました。その後、島津義弘によって社殿を再興、元和4年(1618)12月に鳥居と正八幡若宮の額を奉建しています。御祭神は、仲哀天皇・應神天皇・神功皇后です。
舜清が建立した時は既に蒲生の大クスは樹齢600年を超しており、御神木として祀られていたと伝えられています。
また、伝説では、和気清麻呂が宇佐八幡の信託を奉上し大隅に流された際に蒲生の地を訪れ、手にした枝を大地に突き刺したところ、それが根付き大樹となったものが蒲生のクスだともいわれています。
蒲生の大クスは、推定樹齢が約1500年、高さ30m、根回り33.57m、目通り幹囲み24.22mで、大正11年3月8日に国指定の天然記念物に、また昭和27年3月29日には国指定特別天然記念物に指定されています。
クスは大木になると心材が腐朽して空洞化する特性があるそうで、蒲生の大クスの内部にも直径4.7m大きな空洞があり、畳8畳敷分の広さにも及びます。
◆蒲生城と武家屋敷
舜清の蒲生院・吉田院の支配と同時に築城にかかったのが蒲生城です。蒲生城は蒲生川南岸にある、龍が伏したような地形の標高162mの龍ケ山に築かれたため、別名「龍ケ城」とも呼ばれ、山頂付近に本丸、北尾根側に二の丸、麓に三の丸を配していました。また、その周囲には東の城、岩の城、新城、倉の城などの曲輪群の城で構成されていました。蒲生城はシラス台地特有の形状を活かした壮大な連郭式の山城でしたが、18代蒲生範清の時、島津貴久に攻められ、弘治3年(1557)4月20日に落城・焼失しました。
現在は、郭、空堀、土塁、門などが城であったことをかすかに留めていますが、本丸跡は蒲生城山公園に姿を変え、二の丸跡一帯は広い駐車場となっています。
島津氏との戦いに敗れて蒲生城が落城してからは、蒲生は島津藩の直轄の地頭所となりました。薩摩川内市に源流があり、錦江湾に注ぐ別府川の本流、後郷川と前郷川との合流地点に造られた麓集落は、川を外堀として活用した町割とよばれる八つの馬場がほぼ当時のまま残されており、切石積みとイヌマキの生垣を用いた古い武家屋敷の街並みを見ることができます。