鹿児島の陸の玄関口・鹿児島中央駅東口広場に建つ「若き薩摩の群像」は、今から149年前、薩摩藩からイギリスに派遣され、その後帰国し近代日本の礎を築いた留学生一行の銅像であることは、よく知られています。
生麦事件に端を発し、薩英戦争勃発後、薩摩藩は身をもってイギリスの軍事力や技術力を思い知らされ、西洋文明に強烈な衝撃を受けることとなります。イギリスと和平後、1865年4月17日、海外と自由に行き来することのできない鎖国の中、15人の留学生と五代友厚ら4人の使節団は、グラバー商会所有の蒸気船「オースタライエン号」に乗船し、串木野羽島浦を出航します。
しかし、鎖国下でのイギリスへの出国は国禁を犯しての密航であるため、幕府の目をごまかすために、留学生らは偽名を与えられ、また甑島や大島への出張という名目で渡航辞令書も発行していました。
道中、香港・インドで船を乗り換え、スエズに上陸後、蒸気機関車で陸路を移動し、再び地中海を航海し、イギリスのサウサンプトンに到着したのは6月21日のことでした。
一行が到着したイギリス・ロンドンは、人口300万人を超える世界一の近代都市で、大量のガス灯が煌々と町に明かりを灯し、地下鉄が走る巨大な西洋文明の街並みは、留学生らに激しいカルチャーショックを与えました。
到着後、五代友厚らは紡績機器や武器などの買い付けを行い、留学生らはトーマス・グラバーの兄・ジェームス・グラバーと、日本から随行していたグラバー商会のライル・ホームの世話により、ロンドン大学などで機械技術や医学を学び、帰国後各分野ですぐれた業績を残すこととなります。
◆村橋久成の生い立ち
村橋久成(直衛)は、1842年(天保13)10月、薩摩藩主島津家の一門である加治木島津家分家・村橋久柄の長男として生まれ、のちに直衛、久成と改名しています。
1848年(嘉永元年)、父・村橋久柄は、琉球着任の船が難破して行方不明となり、久成は6歳にして家督を相続します。久成は、藩校「造士館」に学びながら、さらに1864年(元治元年)に設立した「開成所」諸生に選ばれ、新しい洋学教育を受けます。そして、翌年の1865年(慶応元年)3月、23歳の時、薩摩藩英国留学生の一人に選ばれ渡英し、ロンドン大学法文学部で陸軍学術研究を目指します。
英国滞在中、人馬に代わり最新式の自動鋤や刈り取り機などを導入したイギリスの世界最先端の近代的農業との鮮烈な出会いが、後の開拓使として北海道農業推進に大きく役立つこととなります。
1866年(慶応2)3月28日、滞英1年になる頃、他の留学生より先にロンドンを発ち、松木弘安、イギリス人2名と共に帰国の途に就きます。
◆戊辰・函館戦争と開拓使出仕
村橋は、1867年(慶応4)7月16日、戊辰戦争の加治木大砲隊長として250名の部下を引き連れて出陣し、東北各地を転戦、函館戦争では新政府軍の軍監として参謀・黒田清隆と共に活躍しています。
1871年(明治4)11月、村橋は開拓使東京出張所に出仕し、翌年には東京官園勧業事業を担当、1873年(明治6)12月に七飯開墾場の責任者となり農業振興に尽力します。
1874年(明治7)、黒田清隆が懇願し招聘した外国人指導者のホーレス・ケプロンの進言により、札幌郡琴似村を屯田兵最初の入植地として定め、村橋は琴似屯田兵村建設にもあたります。
◆何としても北海道の地で
1875年(明治8)、開拓使が東京青山の官園で試験をすることにしていた「麦酒醸造所建設」の閣議決定について、開拓使東京出張所農業課の最上職であった村橋は“冷製ビールを製造するのに必要な水や氷雪などは北海道の方が豊かで気候も適しており、最初から札幌に建設すべきだ”と強く主張し、開拓使の決定を覆します。
村橋は、函館戦争で初めて北海道の空気に触れ、開拓使としてこの地に携わってきたからこそ、適地は北海道の他にはないと確信していたのでしょう。
また、ドイツに渡り2年2か月の間ビール醸造技術の修行をし、ドイツビール醸造法を習得していた、越後国三島郡与板出身の中川清兵衛を技師として迎え、二人三脚の努力でついに翌年の1876年(明治9)9月23日、日本初の官営ビール工場を完成させたのです。
◆サッポロビールの誕生
総工費8,348円(現在の貨幣価値で約1億円)をかけ開業した「開拓使麦酒醸造所」の開業式では、ビール樽を並べて白い塗料で「麦とホップを製すればビイルといふ酒になる」と大書され、今でもその記念写真が残されています。
醸造所が完成した翌年、「サッポロビール」と名付けられ、ドイツの製法で低温熟成させた我が国最初のビールが発売されました。
1885年(明治18)、醸造所は民間に払い下げとなり、実業家の大倉喜八郎が経営する新たなサッポロビールとしてスタートします。
◆辞職とその後
ホップとビール酵母の確保や長距離輸送手段などの課題をクリアし、ようやくビール生産が軌道に乗り始めていましたが、村橋は1879年(明治12)病気療養のため一月ほど熱海温泉に滞在し、その後東京にて勧業課長に就任、翌年6月に勧業試験場長に就任するも、1881年に北海道官有物払下げ事件を機に、突然開拓使を辞職しています。辞職後の村橋はぷっつりと行方が途絶え、現在でもその足取りの詳細はわかっていません。
1892年(明治25)9月25日、神戸市葺合村六軒道の路上で巡視中の巡査に倒れているところを発見された村橋は、衰弱が激しく9月28日に息をひきとりました。身元不明の村橋の遺体は神戸の墓地に仮埋葬されますが、神戸市役所が出した小さな死亡広告をきっかけに、この行き倒れ人は村橋久成であることが判明し、村橋の壮絶な死を知った旧友の開拓使元幹部らが村橋の実子を伴って神戸で遺骨を受け取った後、10月23日黒田清隆らの参列のもと青山墓地で葬儀が執り行われたのでした。
「近代化とはかくあるべき」という強い理念や美学を持ち、不屈の意志を貫き北の大地にビール産業を興した村橋の功績をたたえ、2005年(平成17)9月23日、北海道知事公館前庭に村橋の胸像が建立されました。
日本屈指のブランドとなったサッポロビール。「選りすぐりの原料だけで美味しいビールを造る」を信念に、一貫したこだわりを持つビール会社は今も尚、開拓者精神が脈々と受け継がれています。
9月に入り、晩酌には少しだけ涼しい気温になってきたような気もしますが、折角の秋の夜長、130年以上愛され続けてきた赤星ラベルのビール片手に、先人の偉業に乾杯してみるのも一興かもしれませんね。