鹿児島の歩き方
趣味の「ロータリー倶楽部」
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南薩路を訪ねるA 〜錫山と稚児の滝〜
錫山と稚児の滝 九州自動車道南端の鹿児島ICから指宿スカイラインを経て、県道20号線を南さつま市へ向かう途中、標高360m付近に錫山という集落があります。 その名の通り、藩政時代は錫鉱44.6トンの産出を誇った錫山鉱山跡地で、錫だけを産した鉱山としては日本一です。 明暦元年(1655)11月15日、八木主人佑元信が41歳の時に鹿追原魑魅峠(かおうばるすだまとうげ)に錫鉱を発見し、私財をもって鉱山開発に努め、運上金を税金として藩に納めていました。また、近くに鉱山がなかったため、元信は尾張・美濃・但馬・備後・伊予・近江などから鉱山技術者を集めて鉱山開発に尽力しました。 その後、元禄14年(1700年)に藩の直営となり、宝暦三年の木曽川の治水工事が始まった際には増産が督励され、露天掘りや新鉱脈の発見拡張で、幕末には「十万斤」(充満金)時代と呼ばれる好景気を迎えます。県内外からやってきた山師と呼ばれる300人もの鉱夫が働き、山ケ野金山(横川町)や鹿籠金山(枕崎)と共に農業生産に乏しい藩の財政を支えた一鉱山となりました。 昭和54年(1979)には産出量は84.5トンと全国第2位の実績を誇るも、昭和61年に、中国のダンピングなどで錫の価格が暴落し錫山鉱山は三百数十年の幕を閉じました。 現在は、当時の遺構などはほとんど残されていませんが、近くに錫鉱発見記念碑、湧上抗露天掘跡、女郎墓などをみることができます。 また、県道20号線から川辺ダム方向に折れ進み細い山道を下った先、桃源郷のような山里の一角に「稚児の滝」があります。 溶結凝灰岩に囲まれた落差4メートルほどの滝ですが、その昔、稚児が罪を着せられて滝壺に飛び込んだという悲しい伝説が残っています。
“稚児の滝伝説” 昔、岩屋川の外れに、小さな山寺がありました。この寺には、和尚と小僧、それに稚児の三人が住んでいました。稚児は早くに母を失い、十歳の時父とも死別したので、この寺に預けられました。稚児は利口で正直な子どもでしたから、和尚はそんな稚児をわが子のようにとても可愛がっていました。 これをねたんだ小僧は、日頃から和尚が白い鶏を可愛がり卵を産むのを楽しみにしているのに目を付け、小僧は産んだ卵をこっそり盗み続けました。 そのうえ「稚児が卵を盗んでいる」と告げ口をしたので、怒った和尚は稚児を呼びつけ、きつく叱りました。そして、「稚児は泥棒じゃっち」と、知らず知らずのうちに村人にも噂が広まっていったのです。 この噂に耐え切れなくなった稚児は、死んで身の潔白を示そうと決意します。白い鶏を抱き「本当の事は、お前が一番よく知っているだろう。すまぬが一緒に死んでくれ」と、夜に寺を抜け出して滝に向かったのです。前夜からの雨で増水した川が流れ落ちる轟音とどろかす滝壺に、稚児は意を決して身を投げました。 翌日、稚児の行方がわからず村中が大騒ぎになり探していると、滝壺のそばに死んでいる白い鶏が見つかりました。「かわいそうに」とその鶏を捕まえようとしたとき、死んだはずの鶏が突然生き返り、立神山頂目指して飛んでいったのです。村人たちが滝壺を調べたところ、川底に稚児によく似た仏像が沈んでいたそうです。 それからこの滝を「稚児の滝」と呼ぶようになり、鶏が浮いていた渕を「鳥ケ淵」と呼ぶようになったそうです。 悲しい伝説の残る稚児の滝ですが、清冽な流れは山里に心地よく響きわたり、界隈ではその豊かな清水を利用してニジマスの養殖やクレソンの栽培などが行われています。 街の喧騒から離れ、ゆったりとした時間の流れを楽しむことができる錫山エリア、ぜひ一度お訪ねください。
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