三月三日は、雛祭り。
女のお子さんのいる御家庭では雛人形を飾り、白酒や三色の菱餅、桃の花などを添えます。
旧くは、上巳(じょうし)の節句といわれており、上巳とは旧暦の3月の上旬巳の日のことをさしていました。中国では、魏の頃より3月3日を上巳としたといわれ、この日に川の水で身を洗い清めて不浄一掃の習慣があったそうで、これが平安時代に日本にも伝えられました。
貴族の間では人形(ひとがた)といわれる紙人形にわが身の穢れを移したものを曲水の宴で流し、不浄を払い清めていました。これが現在の雛祭りの原形といわれ、町民文化が栄え経済的余裕ができた庶民が競って豪華なひな飾りを作るようになった元禄の頃に、各家庭に“桃の節句”として定着したといわれています。
桃の節句のこの季節になると、九州各地でもひな祭りの便りを耳にするようになりますが、おひなさまの名所も数多くあり、古い街並みの残る城下町などで由緒あるおひなさまを楽しむことができます。
柳川市の『さげもんめぐり』、日田市の『天領日田おひなまつり』、人吉市の『人吉球磨は、ひなまつり』などは特に有名で、歴史や文化に深く根ざした地域色豊かなひな祭りを創出しています。
鹿児島市でも、『薩摩のひなまつり』と題して尚古集成館では、99種407点に上る島津家伝来の人形と雛道具が展示されています。お顔は丸みを帯び、やや大きな頭の御所人形や、有職故実に従い公家の装束を正しく考証した有職雛をはじめ、当代随一の職人が丹精込めてこしらえた伝統美の品々がずらりと並べられ、豪華絢爛な様を観ることができます。
これらの雛道具の中には、享保14年(1729)4月8日、徳川5代将軍綱吉の養女・竹姫が、22代島津継豊に興し入れした際に持参したと伝わる御紋入りの琴があり、併せて展示されています。
島津家に興し入れした竹姫は、公家の清閑寺熙定の娘として生まれましたが、5代将軍綱吉の側室であった大典侍局が子宝に恵まれなかったため、姪にあたる竹姫を宝永5年(1708)養女として江戸城北の丸に迎えました。
竹姫は宝永5年7月には会津藩主松平正容の嫡子・久千代と婚約しますが同年12月に久千代は急逝してしまいます。宝永7年(1710)に、有栖川宮正仁親王と結納まで交わすも享保元年(1716)に親王は急逝し、竹姫は二度も婚約者に先立たれてしまいます。享保14年4月(1729)、近衛家の取り計らいなどもあり、25歳になった竹姫にようやく島津家との縁組がまとまります。
しかし、赤字続きの藩財政の再建に取り組んでいた継豊は、竹姫の輿入れによる藩の支出を懸念し徳川家からの縁談の辞退を考えていたのですが、継豊の父・吉貴から、徳川将軍家との関係は未来永劫安泰のために縁談を受けるよう指示が届き、享保14年5月13日に継豊は申し出を受けることを決心しました。
享保14年12月11日、継豊29歳、竹姫25歳、二人の婚礼はつつがなく終了しましたが、竹姫の生活費(約五千両)や幕府との交際費の増加が赤字続きの藩財政に更に大きな負担となりました。しかし、徳川将軍家の親藩・松平家との縁組みによって一介の外様大名であった島津氏と徳川将軍家の関係は更に深まり、また、竹姫は自身が没した後も双方の縁が継続するよう、縁組み取り計らいの遺言を残しています。
67歳で他界した竹姫が残した遺言は、島津重豪の娘・茂姫と一橋豊千代との婚姻や、篤姫が徳川13代将軍家定公のもとに御輿入れするきっかけになっているといわれています。
薩摩を変えた女性ともいわれる竹姫ですが、利発的な性格と御縁を大切にする想いが多くの人々を動かし、結果的に薩摩に繁栄をもたらしてくれたのかもしれません。
各家々で代々受け継がれ大切にされ、いつの世も変わらない美しい眼と優しいお顔で、女性たちの無限の物語を静かに見守ってきたおひなさま。竹姫の生き様はおひな様の目にどのように映っていたのでしょうか。
わずかな期間だけしか見ることのできない各地に残る由々しき姿のおひなさまを、ぜひ愛でてみられませんか。
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『薩摩糸びな』は、江戸時代より鹿児島に伝わる変わり雛です。1本の割竹が首と背骨の役割をし、先端に顔と髪が麻糸で作られています。麻は強く丈夫なことから、「子どもが健康であるように」と願いが込められています。襟や着物の部分は、鮮やかな色使いの和紙が用いられています。女の子の初節句にお祝い人形として贈る、鹿児島ならではの雛人形です。 |