明応元年(1492)9月23日は、島津忠良公が伊作亀丸城で出生した日です。
父は薩摩国守護の分家・伊作島津家9代義久、母は新納是久の娘・常盤夫人(梅窓院)で、長男として誕生した忠良は、幼少時に伊作海蔵院の頼増和尚に預けられ教育を受けます。頼増和尚は躾の厳しいことで有名で、忠良が言うことを聞かないときなどは、御堂の柱に縛り付けたこともあるといわれており、今でもなおその柱は残っています。
45歳のとき、桂庵禅師の高弟である舜田・舜有を師として儒学を学び、早くから領内の家臣団の指導と教育に関心を寄せていた忠良は、規範を理解し覚えやすいようにといろは四十八順に読み込んだ「いろは歌」を用いて、家臣団の精神鍛錬や郷中教育などの精神修養の普及に努めました。
『四書五経』の『大学・伝二章』に、
「湯の盤の銘に曰く、まことに日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり」
(訳:昨日よりも今日、今日よりも明日と、日々よりよくなるように、行いを正していかなければならない)とあります。殷の湯王という名君は、毎日気持ちを新たにと、洗面器の底に刻んで自戒の句としたといわており、忠良もこの故事に倣い、自らの諫めとして『日新』と名乗りました。これが、日新公といわれる所以です。
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