■ 野添会員が特別講演【第5回国際病理学シンポジウム】
2007.7.31 於:鹿児島大学医学部鶴陵会館
野添良隆会員(口腔外科医)は、7月31日に鹿児島大学医学部鶴陵会館で開かれた第5回国際病理学シンポジウムで、「天孫降臨と徐福伝説」と題して特別講演を行った。
このシンポジウムには中国をはじめ国内外の研究者、専門家約100人が参加した。
特別講演で、野添会員はこれまでの研究成果をもとに「徐福降臨の可能性がある」「降臨したとされるニニギノミコトが徐福ではないか」といった大胆な仮説を提唱。さらに、徐福に託された「不老長寿」と現代医学の驚異的な進歩を絡めがら講演を締めくくり、会場から大きな拍手が沸いた。
講演の模様はKKBのニュース番組「スーパーJチャンネル」でも放映された。
■ 天孫降臨と徐福伝説―野添会員講演【内 容】
今年は日中友好35周年。この節目の年に、日本の天孫降臨伝説と日本と中国に伝わる徐福伝説を考察し、徐福降臨の可能性についてお話が出来ますことに感謝申し上げます。
1992年頃のことですが、賈心善先生から「日本人は非常に優秀で、美男、美女が多い。」と面白いことを言われたことがあります。
それは中国の秦の始皇帝の命令を受け、徐福が、3,000人の良家の童たちを連れて、不老不死の薬を求めて日本に渡来し、そのまま日本に移住したからというのです。
賈心善先生は、本日のシンポジウムの中国側会長であり、『私の見た日本・鹿児島』の著者でもあります。
徐福とは、中国の秦の2,200年前の方士、医薬・天文・占などに通じた学者でした。
その時代の中国の秦の始皇帝は、国を統一し、自分を不老不死にする夢を抱いていました。
その不老不死の薬を方士徐福に求めました。
一度日本に行き薬が見つからなかった徐福は、始皇帝の怒りで処刑されることを恐れて、大きな鮫のため薬が取れなかったと言いくるめました。
中国の司馬遷の歴史書である『史記』には、徐福は海上で海神に会い、「お前は皇帝の使いか」、「お前は何を求めているのか」と聞かれたので、「寿命を延ばす薬が欲しいのです」と答えました。すると、海神は「お前の秦の王のお供え物が少ないので、見せることはよいが、与えるわけにはいかない」と言います。そして海神が「良家の童および色んな職業のスペッシャリストを献ずれば、望みを叶えられよう」と言った、と報告すると、始皇帝は大いに喜び、男女3,000人、これに五穀の種と色んな職業のスペッシャリストを加えて、始皇帝は徐福を再度派遣しました。
しかし、不老不死の霊薬を求めて再度東方に船出した徐福は、「広大で豊かな土地」にたどり着き、そこで「王」になって二度と中国に戻らなかった、と書かれています。
この徐福伝説は1982年、中国・江蘇省で徐福村が発見されたことにより、実在説が急浮上し、徐福が日本に渡来した可能性が高くなってきました。
徐福の生きた時代、日本は縄文時代から弥生時代への転換期で、大陸の先進文化が多く入り、飛躍的に発展した時期でもあります。
しかし、我が国の歴史書『古事記』や「六国史」には、徐福の一団とみられる渡来人の船団が上陸し、先住民の縄文人と遭遇したとの記録が何処にもありません。
中国では、日本で農耕・捕鯨などの技術を伝えたり、神武天皇となったという説や、暴君から逃れ、安楽な土地に移民したという説等があるようです。
果たして、徐福は本当に日本に渡来したのでしょうか。
そこで、神話の里で育った私は、この徐福伝説と神話の天孫降臨の関係を考察してみようと思った次第であります。
徐福が生きていた時代より1、000年以上も前の中国の殷の時代に、女性のシンボルに似た子安貝が、宝として、貨幣として使われていました。
この貝は、中国大陸の沿岸では採れないといわれ、八重山諸島、沖縄、鹿児島が最大の産地です。この事は3,000年以上前から中国と日本の間で交流がさかんに行われていたことを意味しています。
さて、徐福の渡来には、3っの航路が考えられています。
「朝鮮半島をたどる航路」「東シナ海を直接渡る航路」「八重山諸島、沖縄から島伝いに渡る航路」です。
一方日本国内の徐福伝説は、南は鹿児島から北は青森にいたる、20数ヶ所に及ぶ日本各地に伝承されています。
私の故郷鹿児島には、3ヶ所の徐福伝説があります。
冠 岳: 串木野の海岸に上陸した徐福が、近くの冠岳で封禅の儀(王様になる儀式)を行ったところと言われています。賈先生と一緒に、大きな船が着岸、上陸できそうな串木野の海岸を探して歩き回ったことがあります。東シナ海を渡れるような大きな船の船底を考えると、砂地の海岸では無理と思い、深い岸壁のある照島海岸と目星をつけて行きましたところ、そこにはすでに「徐福上陸地」の標柱が建てられていました。
紫尾山: (徐福が)冠岳から紫尾山に至り、冠の紫の紐を掛けたというのが「紫尾山」の名の由来であると伝えられています。
がっくい鼻: 一度目の渡来の折り、薬が見つからず、数年たってなかなか帰ってこない徐福にしびれをきらした秦が、迎えに送った船が坊津に停泊していた。
それを見た徐福はへたへたとその場に崩れ込んだといわれ、この峠を「がっくい鼻」と名づけた、と伝えられています。「がっくい」とはこの地方の方言で「がっかりする」という意味です。
もちろん、徐福伝説を立証するには、まず明瞭に裏付ける物的証拠が必要であります。
その物的証拠となりうるものを幾つか列挙してみます。
秦の始皇帝時代の貨幣(半両銭)が日本各地で出土しています。
徐福が焼いたといわれるすり鉢が残っています。
三重県熊野市に調査に行った折、地元の方が「徐福一行が波田須の磯に遭難し、そのまま住み着き、磯の棚田で焼き物をしていた」と、つい最近のことのように話してくれました。
その近くには徐福が祀られています。隣の町和歌山県新宮市にも、徐福の墓があり、その横には7人の重臣を祀った石碑も建てられていました。
縄文時代から弥生時代にかけて、日本人の骨格が突然変化したことも有力な証拠となりそうです。
国際日本文化研究センター埴原和郎教授に伺ったところによりますと、「10人や20人の渡来人の数では、こんなに骨格は大きく変化しません。大変な民族移動があったのではないか」ということであります。
同時に、「縄文時代後期の日本人の人口は、5万から多くても30万人といわれており、仮に3,000人が一度に渡来してきたら、日本人の骨格は短期間に十分に変化しうるだろう」と言われました。
また、埴原教授は顔立ちなどの特徴について、「弥生人は、縄文人とは対称的に多少面長でのっぺりした顔をしており、身長が高く、体毛も少なくなった」「縄文人に、どれだけの渡来人が混じったら、3世紀から7世紀の古墳時代の人間の顔になるかを形態学的に推定すると、西日本では80%から90%、東日本では50%の遺伝子が、渡来人のものと思われる」と述べておられました。
現代の日本人は、日本人固有のDNA文字配列タイプが、わずか4・8%しかありません。朝鮮半島の人と同じか、中国人固有の配列を持つ人は合計すると50%に達し、日本人は遺伝子学的には決して単一な集団ではありません。中国大陸や朝鮮半島の人々と深いつながりを持っていることが、ミトコンドリアDNAを手がかりにわかります。
さらに、1986年のDNA分析技術の革命的大発明により、ミトコンドリアDNAと、ATLウィルスから縄文人とアイヌ人の遺伝的関係を探ることが出来ます。
お隣の中国や朝鮮半島の人は、ATLウイルスを持っている人はいません。縄文後期には、このウィルスを持っていない人々が渡来し、ATLウィルスを持った縄文人を、南北におしのけたと考えられます。しかも、琉球人とアイヌ人のDNAは、文字配列がたった一文字違うだけです。つまり、琉球人とアイヌ人は渡来人によって南北に押しやられ、12,000年以上も隔離されている事になります。
1999年3月の日本経済新聞に、弥生時代の遺跡の炭化米のDNAが朝鮮にはない温帯型ジャポニカのDNAであった、と報道されています。つまり、南方ルートを示唆する証拠と考えられます。
わが国の主食となった稲作のルートですが、2,200年前には、華北より北には稲作の実証がないため、南方の揚子江(長江)下流から日本へ伝来したと考えられるようになってきました。その際、中国人も一緒に渡来し、弥生文化を担っていたものと思われます。
徐福の渡航ルートはまさに、中国―朝鮮―日本の北方ルートではなく、揚子江を中心とする江南からの南方ルート、中国東海岸から直接九州へ達する東海ルートか、中国・台湾から琉球列島を経て九州へ達する沖縄ルートで、串木野や坊津に渡来、上陸した可能性が強いと思います。
それでは、ここで日本の伝説天孫降臨について、簡単にお話しておきましょう。
初めて、男女の神が、天上に現れ、イザナギノミコトとイザナミノミコトが子作りを始め、そこで多くの神を生み出し、アマテラスオオミカミが生まれました。その孫ニニギノミコトが天から日本を治めるために下ってきた。つまりこれが天孫降臨です。
前にも言いましたが、徐福は神武天皇ではないだろうかという、中国の説があります。神武天皇は降臨した神から3代目であるから、つまり渡来してから3代目が徐福ということになり、これだと説明がつきません。従って、徐福が3,000人の集団のリーダーで日本に渡来したと考えるならば、降臨したニニギノミコトが徐福ではないか、と考える方がより妥当と思います。
高千穂の峰は、高さ1700メートル、神が降臨するにふさわしい形の霊峰ですね。
峰の頂上には、海水をかき混ぜ国づくりのために用いた鉾が、逆さまに突き立っています。
神話によれば、天から神が降臨してきた時、口は赤く目は大きく、天狗のような鼻をした異様な形相のサルタヒコがお迎えに現れた、そのサルタヒコの異様な姿を見て神々は逃げ出した、という。その時、降臨してきた先頭の神の女性が、色仕掛けでサルタヒコを口説き、天孫ニニギノミコトの道案内をさせた、と言われています。
吹上町には、道案内人サルタヒコが通ったと言われている道が今も野首に残っています。この事から、お迎えに行ったのは地元、鹿児島の熊襲・縄文人だった、と思われます。
異様な形相の道案内人は、きっと漁師で、胴に比べて四肢が長くて細く、二重瞼でばっちりした目、彫りの深い立体的な顔で毛深い縄文人だった。海で危険な魚などに襲われるのを防ぐため、入れ墨を施していたはずだ。また、お歯黒もしていたであろうから、それが天から降りてきた神々、いや渡来人の目に異様な形相に見えたのではないでしょうか。
『魏志倭人伝』にもあるように縄文人は、刺青をしていたようです。
明治中頃まで、アイヌにも入れ墨の習慣があり、沖縄や奄美大島では女性が入れ墨する習慣が残っていたと、本日、出席の日高旺氏の『黒潮の文化誌』にも書かれています。
私はこれ等のことから神話の天孫降臨をした天孫ニニギノミコトは、徐福その人ではなかったか、という大胆な仮説を立ててみました。
ニニギノミコトは、どうして大和朝廷からみたら野蛮人とされた南九州熊襲のコノハナサクヤヒメと結婚したのであろうか。降臨地が内陸部の高地であり、そして何故、空から降りたのであろうか。
不思議なことに、降臨後ニニギノミコトは、再び海から上陸し、生活した、という伝承地が笠沙(薩摩半島)にあります。
そのことから、降臨とは、「天下る」とは考えられないだろうか。さらに、「あま」は海の事だとも考えられます。降臨した後、海から上陸したという伝承は笠沙以外に、鹿児島県内の大崎、内之浦、宮崎県の西都市などにあるので、神が空から降臨したのではなく、実は渡来人が海から上陸したのだ、と想像されます。
ところで、古代の天皇はみんな長寿です。
例えば、
・神武天皇 137歳
・考安天皇 123歳
・崇神天皇 168歳
・垂仁天皇 153歳
・景行天皇 137歳
等です。
暦の不確実だった古い時代のことではありますが、神武天皇即位の年代に疑問がもたれます。今から2,614年前(紀元前660年)、初代の天皇、神武天皇が即位して日本の国は始まったとされています。それは中国の「讖緯(しんい)説」を根拠にしていますが、無理があると思われます。
初代の神武天皇から、16代の仁徳天皇に至るまでの中に、100歳を超える天皇が11人もおり、日本の紀元と徐福の渡来は450年程差がありますが、当時の人間の平均寿命など勘案しますと、日本の紀元はぐっと縮まって、徐福渡来の時来と合って来そうです。
今から約4,000年前の青銅時代から、ギリシア時代までの人間の平均寿命は18歳程です。平均寿命が50歳を超えたのは、ほんの60年前のことです。従って、日本国の始まりは紀元前660年ではなく、徐福が渡来した紀元前210年頃とすべきではないだろうか。
医学者である賈心善先生によると、焚書坑儒から免れた中国最古の医学書『黄帝内径』では、現代と殆ど変わらない漢方医学が2,000年前にすでに確立された、といいます。
紀元前200年頃に、その漢方等を知っている方士徐福が、五穀の栽培や、鉄や漢方を持って日本に来たとしたら、神として崇められたとしても、決して不思議ではないですね。
徐福にかかわる伝説、日本の天孫降臨伝説を考察しますと、天孫降臨とは間違いなく渡来人であり、その渡来人とは徐福集団である、と思わざるをえません。
どろどろの宇宙から島を創り、神が降臨し、日本を作った。非科学的と切り捨てないで、もう一度神話伝説を手元にたぐり寄せ、ロマンチックな夢として残したいものですね。
自然界で平均寿命80歳といわれる象は6回、歯が生え変わることによって、長生き出来る。人間は1回しか歯は生え変わらないので、組織学的には人間の寿命は45歳といわれています。
1997年クローン羊が誕生し、将来どんな病気に罹りやすいのか、人の生死や病死までも予測できるヒトゲノムの解読の解析が始まっています。
21世紀の医療は、20世紀の「治療する医療」から、ゲノムを利用し、高血圧・心臓病・癌・糖尿病・エイズ・奇形等に罹りにくい体質の人間を作り出す、あるいは作り変えたりする生命操作が簡単に行われる「神の領域」に到達しつつあります。秦の始皇帝が追い求めた「不老長寿」を、ほぼ手中に収めるかもしれないと思います。
ここまできますと、昨今叫ばれている医療の倫理・道徳の問題が大変重要になってきたようです。
日本は、男性78歳、女性85歳の世界一の長寿国になりました。始皇帝が聞いたら驚くような有難い時代になりました。今からは長生きするだけでは意味がありませんね。
ところで皆さんは、死ぬまで美しく、幸せで、楽しく、健康で長生きでロマンを語れる人生を送れますか。
天孫降臨は徐福ではないかという仮説、脱線して21世紀の医療の自説までお話させていただきました。
この講演の座長の労をとっていただいた佐藤栄一名誉教授、徐福へのアドバイス・調査に協力いただいた中国医科大学賈心善教授、英語の抄録から、原稿のチェックまでアドバイスいただいた蓮井和久講師、通訳していただいた王嘉先生に感謝申し上げます。
本当にご静聴ありがとうございました。
第5回国際病理学シンポジウム特別講演内容
2007年7月31日
鹿児島大学医学部鶴陵会館にて
野添良隆会員
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