サンライズRC25周年式典に出席
― 友好の強い絆と心温まる歓待に感激
2011.6.2-8 於:サンタローザ
昨年12月、サンタローザの姉妹クラブ、サンライズロータリー・クラブから創立25周年式典への案内がメールで届いた。さらに、5月初めには、東日本大震災の被災地に2500ドル(約20万円)を、私たちのクラブを通じて寄付したい、というメールが届いた。サンライズロータリー・クラブの会員で、鹿児島友好協会会長でもあるスティーブ・エイメンドさんからのもので同クラブの理事役員全員一致で決まったのだという。
古木圭介・国際奉仕副委員長を団長に私と妻の3名の訪問団は6月2日夕刻、鹿児島空港を出発、羽田空港経由でサンフランシスコに向かった。サンフランシスコには現地時間で同日夕方、到着。スティーブさんが到着口で出迎えてくれた。スティーブさん愛用のトヨタRV車でゴールデンゲートを渡り、2時間弱でサンタローザのスティーブさん宅に着いた。丘の上にある別荘風の大きな邸宅で、庭にはベルサイユのプチトリアノンを思わせる、奥さんが丹精こめた自慢の庭園があった。
スティーブさん宅では、昨年(2010年)の鹿児島サンタローザ学生交換プログラム(以下SRKSEP)の引率者だったマギー・ロンドン(テクノロジー高校インターアクト担当美術教師)夫妻と2009年の引率者、デビット・ホワイトヘッド夫妻(中学校理科教諭)が待ち受けており、再会を喜び合った。
カリフォルニアはこのところ異常気象続きで、気温も日中が18度、朝晩は5度ぐらいまで下がる。雨も多量で、「いつもはこんなことはないんだけど」と、地元の人々は首を傾げ、恐縮していた。
翌日は、ホストファミリーが私たちの希望を快諾してくれ、市内観光へ。近郊の高級ワイナリー、2007年にサンタローザ市が指定した「ナガサワパーク」、スヌーピーの作者チャールズ・シュルツ氏が娘のために作ったというスケートアリーナを案内してもらった。サンタローザ市の至るところでスヌーピーの像をみかけたが、そう、サンタローザはスヌーピーファンにとって聖地でもあるのだ。
午後からは、鹿児島友好協会(Friends of Kagoshima Association、1983年設立)の初代会長であったファーン・ハージャーさんの自宅で、ティーパーティ・ミーティングがあった。そこには急逝された前サンライズロータリー・クラブの会員で、鹿児島友好協会ではSRSKSEP委員長も務められたボブ・スコッツさんの奥さんもお見えだった。
さて、ハージャーさんは現在91歳になられるご婦人ですが、1983年にサンタローザ市に鹿児島友好協会を設立され、鹿児島に「鹿児島サンタローザ友好協会(初代会長・新納教義氏、副会長・門田明氏、事務局長・古木圭介会員)」ができるきっかけをつくられた人物である。さらに同年、当時のレーガン大統領に働きかけ、幕末の薩摩の留学生で後にアメリカに渡り「ブドウ王」と呼ばれる長澤鼎のことを国会でスピーチさせたほか、2007年にはサンフランシスコ日本総領事立会いのもと、「ナガサワパーク」を開園するなど、日米親善交流の歴史を語る時に決して忘れてならない功労者である。
今もお元気なハージャーさん手作りのおいしいクッキーをいただきながら、午後のひと時、鹿児島とサンタローザの友好にまつわるエピソードや、関わった人々の思い出などを、懐かしく楽しく語り合った。ハージャーさんは会の最後、学生交換プログラムが今も受け継がれていることに、しっかりとした言葉でお礼を述べられた。
サンライズロータリー・クラブ創立25周年式典は6月4日(土)午後6時半からフェアウェーを見下ろすサンタローザ・カントリー・クラブで行われた。会場には、2006年SRKSEPの鹿児島での様子が映像で流されていた。参加者は、男性はネクタイにジャケット、女性はドレスと、私にとってアメリカで始めて体験する正装の集いであった。それぞれがバーカウンターでカクテルを取り、私たちも懐かしい人々と再会し、また、多くの人と挨拶を交わした。初めての人でもロータリアン同士というのはなんともいえない自然な親しみを覚えることが有難いと思った。会長のケン・ペトロ氏をはじめ、いろんな方と挨拶を交わしたが、2年前に来鹿したSRKSEP学生でインターアクターのコール君に会えたのも嬉しかった。会長によると現在会員は70名、式典の参加者は110名である。
私たちは来賓席に案内された。テーブルには30歳ぐらいで親しみある日本語を話す金髪の美しい女性がいた。名前はアマンダ。彼女は1997年に来鹿したSRKSEPのOBである。その後、日本に興味をもち、大学卒業後、岡山のALT(学校での語学アシスタント教員)として2年過ごし、今は誰もが知っている有名企業のアジア担当弁護士をしている。
カクテルタイムの後、隣室のビュッフェへ私たちが最初に案内された。案内はテーブルごとで、最後のテーブルが案内されたのは30分も経っていたであろう。会場は酒で乱れる人もなく、おしゃべりしながら案内を待ち、整然と食事をとり、仲間との大事な時間を楽しんでいた。
一通り食事が終わったころ、SAAの進行の下、式典が始まった。ペトロ会長の挨拶の中に「遠くから時間をかけて訪問した賓客」と私たちを紹介、出席への謝辞があった。
続く式典の前半は、創立から25年間を振り返ることだった。しかも、頭の約25分間はSRKSEPの歴史に当てられ、スティーブさんがパワーポイントを使い25年間を回顧した。お気づきだろうか、SRKSEPも今年は25回目のはずで、サンライズロータリー・クラブ創立と同時に始められ、継続されている事業なのである。SRKSEPで太平洋を渡った学生が299名に上ることも紹介された。
続いて、私たち団員の紹介、東日本大震災被災地への寄付の贈呈、南徹・鹿児島西ロータリー・クラブ会長からの挨拶文の代読と記念品の贈呈があり、古木団長が当クラブを代表して祝辞を述べられ、その中で、当クラブの創立50周年への誘いもしっかりとされた。式典終了後、数名の会員から早速、訪問の期待を寄せられた。
私もSRKSEPの報告を短くした。25回目にして、大震災により今期、中止のやむなきに至ったこと、過去4年間の日米学生の意識調査から異文化への興味と自己開拓を期待する、日米に共通する応募の学生像を紹介した。
その後のプレゼンテーションでは、南米で行われた当クラブとのマッチング・グラント、中南米への白内障治療の医師団派遣、歯科医の派遣、市内の保育園に建物を寄贈したことなどの紹介があった。過去25年間の寄付の総額は1,250,000ドル(約1億円)に上るという。このクラブの明るく和気藹々とした雰囲気も、社会にしっかりと根ざしている活動実績に裏付けられた誇りが醸し出すのだろう。
後半は、国際ロータリー、サンライズロータリー・クラブ、SRKSEPなどをテーマにしたクイズ大会で、テーブルごとに得点を競った。ウケを狙った突拍子もなくユニークな回答もあり、会場はテレビのバラエティ・クイズショーのようで大いに盛り上がった。SRKSEPと鹿児島に関するクイズも沢山あり、同じ事業を共有している仲間の友情と絆を強く意識した。
木曜日に鹿児島を経ち、次の週の水曜日の例会までに帰国するという慌しい訪問だったが、友情にあふれた心温まる歓待を受け、感激した。今回は震災などで、少人数の訪問となったが、姉妹クラブの同士として、これからも相互を励まし、訪問しあい、友情の絆を紡ぎ続け、次世代までも引き継いでいかねばならないと思った。
私が18年前にサンタローザを訪問したときは、人口は5万人と言っていた。今や14万人だそうだ。長沢鼎がブドウ醸造所を築いた見晴らしの良いファウンテングローブ高台には、大きな民家やIT企業などの近代的な建物が目に付く。風格と落ち着きを備えたガーデンシティになっていた。
今から140年前に、この町で起業した長沢鼎という日本人が多くのアメリカ人に信頼されなければ、今日のサンタローザはなかったかもしれない。この町の生い立ちと繁栄は、明治の初めにサムライからビジネスマンに転進した「ナガサワ」の軌跡と深い関係があるのだ、と改めて実感しながら帰路についた。
(記:七枝敏洋・ロータアクト委員長)
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