ゲスト卓話「肝付兼行(第2、4代水路部長)−小松帯刀の甥」 第十管区海上保安本部次長 小田巻 実 氏
2008.10.22 於:鹿児島西ロータリー・クラブ第2243例会
海上保安庁が海難救助や海上警備を行っていることはよく知られているところですが、その他に航海に必要な海図を作る水路業務などを行っていることは、なかなか知られていません。最近、「篤姫」を見ていると、肝付尚五郎、のちの小松帯刀がよく出てきます。肝付という苗字は、水路業務を担当している海上保安庁海洋情報部(前水路部)にとっては、第2代(1888-1892)、第4代(1894-1905)の肝付兼行水路部長として非常になじみ深く、「小松帯刀とどのような関係なのかなあ」と思っていたところ、肝付兼行は尚五郎の長兄の子で甥にあたることがわかりました。この機会に現在の水路業務の礎を作った肝付兼行の業績を紹介させて頂こうと存じます。
肝付兼行は、幼名江田船太郎、明治2年17歳で北海道開拓使に勤めますが、明治5年、その前年にできたばかりの兵部省海軍部水路局に出仕、測量原点位置及び磁針偏差測定の仕事に付きます。明治7年には観象台(天文台)担当となり、金星日面通過・経度差測定の修習もしました。これらによって日本全国の測量の元になる原点位置(経緯度)が決められました。明治14年には測量課長となって、全国海岸測量12カ年計画を策定・推進、この間に軍港地の選定にも関与したようです。明治21年には水路部長、明治25年に待命となりますが、明治27年に復帰、同年、日清戦争が起こります。明治28年の日清講和条約締結後も部長を続け、明治37年には日露戦争が始まり、日本海海戦後の明治38年11月に交代します。退官にあたって、水路部では肝付部長の名前で刊行された海図一式を合本し、贈呈しました。その後、この海図集は、関東大震災で水路部庁舎や海図原図が全部焼けてしまった折りに遺族から返却寄贈され、今でも肝付海図として大切に保存されています。
このように肝付兼行は、幕末から明治にかけて日本が開国し、海洋国家として世界に羽ばたこうとしていた時期に、測量原点を決めることから海図の編集刊行に至るまで水路業務を指揮したリーダーでした。また、日清・日露戦争の海軍を支えた立役者の一人とも言えるでしょう。現在では、GPSや電子海図で簡単に自分の位置や地形がわかるようになりましたが、海上保安庁では、その精度向上や維持の業務を行っており、その中には肝付兼行が切り開いた水路測量技術や成果が脈々と受け継がれているのです。
最後に、明治維新や海軍ゆかりの鹿児島の方々に水路業務に偉大な足跡を残す肝付兼行のことを知って頂く機会を与えられたことに感謝いたします。
(卓話者・小田巻氏の経歴)
昭和53年京都大学理学部大学院修了、海上保安庁入庁。昭和63年京都大学理学博士。
海上保安大学校教授、尾鷲海上保安部長、海洋情報部海洋情報課長、水産庁漁場資源課長などを経て、平成20年4月から第十管区海上保安本部次長。
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