南会員の観光功労と出版を祝う会、開かる ―3月23日、城山観光ホテル大ホールで
南徹会員
南徹会員(IBS外語学院学院長)の観光ボランティア通訳功労九州運輸局長賞と労作「蛭子」の出版を祝う会が3月23日夜、鹿児島市の城山観光ホテルで盛大に開かれた。
同学院は英語を使って日本文化の素晴らしさを世界に発信できる国際人を育てようとユニークな教育を実践している。まだ、県や市に国際交流の担当課もなかった時代から、鹿児島に外国船が入港すると手弁当で通訳、観光案内の役目を引き受けてきた。その功労が認められての受賞となった。
また、日本の神話を題材にした労作「蛭子」の出版も合わせて祝う会となった。
会には、ロータリアンをはじめ各界の代表ら約300人が出席した。挨拶に立った南会員は「何のために英語を学ぶのか」と、独自の教育論を展開しながら、ウイットに富んだスピーチを披露し、会場は大きな拍手に包まれた。
以下は、スピーチの要旨です。
南徹会員 スピーチ要旨
なぜ英語を話すのか? なぜ、英語とはあまり関係のない神話の本を書くのか?
それは、国際社会から孤立しないためです。日本と言う国の文化を世界に正しく理解してもらいたいからです。英語を話すことで、言葉で、日本の美しさを世界の人々に理解してもらいたいからです。逆に、日本人として、客観的に日本の美しさを、英語という言葉で認識できるからです。
「英語を学ぶ」ではなく、英語で学び、英語で日本の文化を発信できるようにすることです。「蛭子」という神話の話を書きましたが、神話は英語で伝えたい日本のすばらしい文化だからです。
寺子屋的で、新しい時代に適合した郷中教育、青空教室、大自然の神々に祝福された学び舎を、と故郷の鹿児島に創立したのが、今から、30年昔です。iBS外語学院の始まりです。
アメリカに11年住んでいました。苦しい生活の中から、父や母が、やっとの思いでつくってくれた、片道の旅費と半年分の授業料を手にして日本を離れたのが、昭和45年、1970年の夏でした。40年昔です。何回もの失敗や苦労を楽しみながら、日本人の僕がアメリカの大学で教えるという職を手にして、感激でした。アメリカで、自由に生きることのできる永住権、グリーンカードも手にして、僕の本当の人生はこれからだと思っていた矢先に、父が53歳でこの世を去りました。結局、アメリカを完全に引き上げることにしました。
故郷に帰りました。鹿児島なら、世界に通じる南の玄関口だから希望が見えるはずと思ったからです。でも、鹿児島は南の玄関口ではありませんでした。勝手口でした。台所の出入り口のようなものでした。当時、鹿児島県庁にも、鹿児島市役所にも、国際交流課はありませんでした。外国からの観光客船が入ってきても、満足のいく波止場はありませんでした。それでも、手持ち弁当と、手作りの英語観光案内パンフレットで、仲間を募って、早朝から港に出向き、鹿児島の自然と、文化と、人々の温かさを持って帰ってもらえたらとの思いで、一生懸命頑張りました。日本の文化を、鹿児島の文化を、英語という言葉を使って発信することに務めました。
三千年近くも、本筋がほとんどぶれることなく存続してきた奇跡の国、192の世界の国々の中で類稀なる国、日本。この美しい日本を、美しい鹿児島を、言葉で持って、世界に正しく発信できる方法はないかと頑張りました。僕は日本が大好きです。日本に生まれ、日本で育ったことに誇りに思っています。日本は、世界に類をみないほどに恵まれ、大自然の神々に祝福された、美しい国です。
神道・儒教・仏教・キリスト教、全ての宗教が、全ての教えが共存し、調和し、磨かれて、かつ進化して、全く新しい形で、日本の文化として伝承されてきました。日本の教えの中には、絶対は存在しません。絶対があるとすれば、それは、大自然の力だけでしょう。
僕はせいぜい、40近くの国々しか訪問したことはありませんが、諸外国と比較すると、資本主義のど真ん中にあり、嫌になるほどの人工物が、我が物顔に存在しているのに、何千年、何万年と、何ら変わらない美しい自然が、巧みなバランスを保ちながら、まだまだ、たくさん残っています。
無意識のうちに、自然を守り、自然と共存を続けることが、日本人の生き方だったからだと思います。自然は嘘はつかない。自然は偉大なる先生であります。生きる術は、全て自然が教えてくれます。自然に学べば、恐れるものは何もない。そう、信じていたからだと思います。
第二次世界大戦では、世界を相手に戦いを挑みました。無謀で、残酷で、たくさんの後悔を残した戦争でした。二度と繰り返してはいけない戦争でした。理由はどうあれ、日本民族が歴史の中から抹消されるかもしれない勢いで、原爆を二個も落とされたのに、臥薪嘗胆の恨みで、アメリカを忌み嫌うことはありませんでした。卑屈になることなく、日本再建のため、国民全てが、一生懸命に力を合わせ、奇跡ともいえるほどの復興をとげ、世界の経済大国になりました。
日本という国は、天上界の神々の住むところかと思えるほどに、摩訶不思議な国です。でも、この美しい国が、故郷が、ごく最近になって、今までの歴史の中では、ありえなかったほどの勢いで、何か見えない力で蝕まれ始めました。骨抜きにされようとしています。日本崩壊の末期症状が始まっています。
つい最近まで、僕ら日本人は、何でもできました。包丁を使って、魚や、鳥や、動物を解体して、食用の肉として料理することができました。薪を割って、火を起こすことができました。野山の雑草が、薬にも毒にも野菜にもなることを知っていました。「足るを知る」と言う言葉の意味が、生活の中に染み付いていました。生きるための知恵は、自然と共に生きる生活の中から代々教えられてきました。大自然を先生として、頭だけではなくて、体と心で学ぶ学問で満ち満ちていました。
悲しいかな、今の我々のほとんどは、便利社会に依存することで生かされています。自然との対話には、拒否反応すら覚えるようになりました。野生を忘れた、動物園の檻の中の動物のようなものです。ぬるま湯の蛙のように、ゆっくり、ゆっくりゆでられながら、麻痺して、熱さを感じられないままに死んでいく姿を想像してください。
でも、まだ間に合う。あきらめてはいけない。こんな病に、一番効く薬は何か?特効薬は?
それは教育です。今こそ、真剣に、原点に帰って、人間が人間であるべき姿の教育を、問い直す
時です。教育には、知識のための教育と人間になるための教育との二つの教育があります。知の
ための教育は、コンピュータなどの機械でもできます。でも、人間になるための教育は、人間にしか
できません。今、僕らにとって大切なのは、人間が人間になるための教育です。対話の教育です。
日本人独特の対話の力を、世界が共通語とする英語で、世界に発信する必要があります。
対話の場として、日本人にとって、とても大切な場所がありました。しかし、過去50年〜60年の間に、その大切な場所が、ほとんど消えてしまいました。各家庭に必ずと言っていいほどに存在していた縁を取り持つ場所、縁側です。縁側がなくなり、縁も絆もなくなりました。安らぎの場所も、帰るべきふるさともなくなりました。古き良き時代では、暖炉では、おじいちゃん、おばあちゃん、おとうさん、おかあさん、家族みんなで、楽しく一日を語り合うことが日課でした。おじいちゃん、おばあちゃんは対話の神様でした。かけがえのない宝物でした。けっして、豊かに、物で溢れていたわけではありませんが、清貧の美しい文化でみなぎっていました。対話の文化で満ち満ちていました。
過去の全てが良かったと言っているわけではありません。失くしてはいけないものを失くしてしまったことを憂いているわけです。美しい日本の心、日本の文化を、世界の人々が理解できる言葉で世界に発信することで、日本の魂は守られ、この魂が、世界平和の魂となるかもしれないと思うのです。書物はたくさんあります。文献は数限りなくあります。しかし、文字だけでは、充分ではないのです。こんな時代に、スピードを求める時代に必要なのは、話す力です。対話の学問です。
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