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平成20年1月24日 前田 義博会員〈特別養護老人ホーム寿康園理事長〉卓話

『私が歩んだ道、そして、これから』


 私は昭和13年11月13日に生まれた。寅年で、AB型。6人兄弟の三男坊である。私の生まれたところは、千代田区の逓信病院であった。出生地としては、東京都足立区千住2の39で届出がしてある。
 父は蒲生出身で、足立電話局長であった。私が高校2年の時、59歳で亡くなった。母は82歳で亡くなった。帖佐出身で実家は製材所であった。
 学生時代は、進学校の都立江北高校(元府立十一中)で学んだ。浪人を経験して人生の進路をかえ、立教大学経済学部経営学科に入学、4年間、同好会のホテル研究会、通称「ホテ研」で過ごした。夏休みの2ヶ月は、富士ニューグランドホテル、熱海ホテル、箱根ホテルで実習をした。将来のホテルのGMを目指して、ホテル講座の委員等をした。大学3年の時から、社団法人日本ホテル協会会長で帝国ホテル社長の犬丸徹三氏の職員となった。東京オリンピック選手村の食堂経営も請け負った。
 内科医であった長兄が、どうしても鹿児島に戻ってきて、俺を手伝えということで帰鹿、医療法人三稲会の事務長をやりながら、サイドビジネスも手伝わされた。仕事中交通事故でムチウチ症になり、八反丸病院に入院、その時出会った看護師と昭和43年11月に結婚した。8歳年下であった。
 その後帰京し、先輩の勧めで昭和44年、(株)ホテルプラザに入社。東京事務所、大阪本社営業部長になった。この間、大阪花の万博を経験した。社長の鈴木剛氏は、元住友銀行の頭取で、関西経済界の重鎮であった。東京では秘書的仕事もやり、今思うと素晴らしい経験をさせて頂いた。
 長兄の死後、帰鹿し、私は現在、社会福祉法人寿康会の理事長をしており、特別養護老人ホーム、ケアハウス、デイサービス、グループホーム、ヘルパー事業所、居宅介護支援事業所等の責任を背負っているところである。約10年間、県内外の老人福祉施設協議会の役員をしていたので、公私共に超多忙であった。一昨年、人生のギアチェンジを行うべく大役を降り、現在は鹿児島県福祉施設士会会長、鹿児島県社会福祉協議会評議員、NPO福祉21かごしま理事、日本老年行動科学会の理事及び県支部長をしている。
 趣味は、帰鹿してから、美術鑑賞、陶芸、水彩、油絵、カラオケ等々、広く浅く勉強した。小さい頃から絵が好きで、桜島が大好きな人間なので、これからはあらゆる方角からの桜島を描いてみたい。これが夢であり、個展をしたいと思っている。錦江湾や、島々で釣りを楽しむのも夢であるが、それは先のことである。歴史と美しいものを見るのが好きで、内外の美術館巡りも楽しみにしているところである。
 桜島を眺めて、私が油絵で、最初に描いたのは朝日通りから見た桜島である。ビルの真中に、迫力ある桜島がある。東京ではあり得ない光景、又、色々な方角から、桜島が姿を変えて厳然としている姿も好きだ。西坂元のマンションからも、素晴らしい桜島が見える。「我が胸の燃ゆる憶いにくらぶれば、煙は薄し桜島山」―時々、一人吟詠するのである。明治の偉人達も桜島をみて育ったことを思うと、心がたぎるおもいである。
 生活信条は、真直ぐに、誠実に、積極的にプラス思考で、人生をおくることである。職員や他の若い人達にも、その信条をすすめている。一昨年、鹿児島西ロータリーの会員になった。同じような信条が掲げられていた。
 今後は、自然体で、あくせくすることなく、ゆったりと人生を送りたいと思っている。たくさんの本を読み、内外の旅行や、特に世界中の美術館と博物館をみて歩きたいと思っている今日この頃である。
 最後に、介護の事でご相談があれば、いつでも話しかけて下さい。よろしく。
 

特別養護老人ホーム寿康園
理事長 前田 義博

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