鹿児島西RCアーカイブス
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鹿児島西ロータリークラブ

「広報」をテーマにしたクラブフォーラム 広報委員長 大野会員


2008.2.6 於:鹿児島西ロータリークラブ第2209例会

 第2209例会(2月6日)は「広報」をテーマにしたクラブフォーラムでした。大野達郎・広報委員長やホームページの制作・管理をお願いしているシイツウの田中聡氏が報告しました。しかし、時間の制約上、内容を十分にお伝えすることができませんでしたので、ここに改めて収録いたします。ロータリーにとってなぜ広報活動が必要か、についての理解の一助にしていただければ幸いです。
 

「ロータリークラブと広報」
鹿児島西クラブ広報委員長 大野達郎


  国際ロータリーのHPは、「広報活動」の概要のなかで「ロータリーが末永く成長を続け、奉仕を行っていくために、広報活動は欠かせません。ロータリーの良いイメージをつくることは、ロータリアン一人ひとりの責務であり、地元と世界規模の両方で活動を行う必要があります」と記し、極めて大切な活動であると位置づけている。あわせて「ロータリーの活動を最適な方法で広報し、一般の人々やメディアに効果的に話題を提供することは容易ではありません」と述べ、効果的な広報資料の作り方やメディアとの上手な付き合い方などについても細かく指導している。クラブの広報を担当する者には必見のページだ。
  例えば、わかりやすい文章の書き方については「プレスリリースやメディア向けの通信書簡の多くは、逆ピラミッドの文章構成になっている」「文章の第一段落に“5つのW”を含めるようにする」と指導している。メディアへの対応や記者との付き合い方などについても行き届いた配慮がみられ、心憎いばかりである。おそらく記者の経験者かメディア関係者からの細かい助言があったに違いない。
  興味深く感じたのは、広報活動の概要のなかに「自分だけで大勢の人に影響を与えることは難しい。理解を得るためには、ロータリアンだけでなく、ロータリアン以外の人を含めた数多くの人々に働きかけることが重要だ」というポール・ハリスの言葉だ。いうまでもなくハリスはクラブの創始者であり、彼はクラブ発足時から「広報活動」には特別の意義を感じていたということだろうか。
  『ロータリー情報』の「ポールP.ハリス略伝」に目を通すと、意外なことに彼自身が新聞記者を経験していたのである。1891年にアイオワ大学法学部を卒業後、「5年間、世界各地の見聞と職業体験を決意」して多くの職業を経験したが、この間にサンフランシスコ、デンバー、ワシントンなどで記者を体験する。ほかに果樹園労務者、教師、カウボーイ、劇団役者、船会社の家畜係、大理石会社…など職業遍歴は実に多彩であり、仕事絡みでヨーロッパ各地も歩き回った。最終的に1896年2月、28歳のときにシカゴで弁護士を開業するが、この職業遍歴時代の数回の記者体験が後に「メディアを上手に利用する」という敏感な広報センスを育んだのだろうと想像する。
   ロータリークラブの発足は、ハリスがシカゴに落ち着いて9年後の1905年2月23日である。しかし、このときのクラブは「広報活動」をそれほど積極的に位置づけてはいなかったようである。
   「略伝」によると、「(弁護士を開業した当時の)アメリカ社会は変動期で、あらゆる人種、信条、文化の坩堝は犯罪、汚職、暴力の巣窟で利己主義・悪徳商法が横行していた」という。こうした時代背景があったからこそ、信頼できる温かい友人たちを希求し「一業一人の相互扶助の新しいクラブ」の構想も芽生えたのであろう。
  「専門職業界を一人で代表することによって社会の為だけでなく、お互いの職業を利用しあうことは会員同士の親睦と相互扶助に役立ち、特に新会員は新たな友人となり、公正な取引は信頼感を深める」「会員は寛容で親睦と友情の精神にあふれた人でなければならない」。そんな計画に賛同したのが鉱山技師ガスターバス・ローア、裁縫師ハイラム・ショーリー、石炭商シルベスター・シールの3人で、殺伐としたシカゴの街の一隅で友情という絆を大切にしながらお互いの仕事の成功を図ろうと誓い合ってロータリークラブはスタートする。
  RI2650地区(京都、奈良、滋賀、福井)の2006年1月「ガバナー月信」に「ロータリークラブ『奉仕の一世紀』」という記事があり、それによると、1906年1月に作られた最初の綱領は親睦と事業利益の増大の2項から成っており、発足1年後には会員は80人前後になったという。しかし、入会の誘いを受けたD・カーターという特許弁護士から「会員利益しか考えないクラブは発展しない」「会員以外の人に役立つようなことができれば将来性がある」と指摘される。
  これを受けて1907年に「シカゴ市の最大の利益の推進し、市民としての誇りと忠誠心を市民の間に広める」という第3の条文が追加された。ここで初めて「内向き」のクラブから地域社会に奉仕するという「公的」性格が付与され、クラブとしての普遍性を高める大きな契機となったようである。
  この年シカゴRCの会長になったハリスは、「会員増強」「他都市に新しいRCの設立」「地域への奉仕活動展開」の方針を掲げている。クラブの拡大と地域奉仕展開の路線はクラブ内に深刻な軋轢を生させたが、翌1908年11月にはサンフランシスコに第2のクラブが誕生し、1909年には地域奉仕活動として公衆トイレの設置に成功する。
  クラブが「拡大」を目指すとき、当然ながら「広報」は欠かせない活動となる。また、何を広報するかといえば、「奉仕活動」がクラブの公的性格をアピールする大きな材料となる。当時はラジオもテレビもない時代だが、新聞は消費社会の拡大とともに大衆化・大量消費の流れに乗っている。ハリスの記者経験はメディアとの友好関係の大切さを教えたであろうし、その後のクラブ拡大に資するところ大であったと思うのである。
  ところで、国際ロータリーのHPは「従来とは異なる新しいメディアツールの活用」についても言及し、「新しいテクノロジーが発達してもプレスリリースは今なお健在」としながら新しい技術を積極的に取り入れる必要性を説いている。
  鹿児島西クラブは07‐08年度にIT委員会を立ち上げ、HPの充実に取り組んでいる。HPの充実がもたらす効果は、クラブ内外への広報活動の充実という意味だけに留まらない。会員の情報共有の場でありクラブの活動記録そのものでもある。できるだけ多くの会員が参加することで、もっと充実しものになるはずだし、先々の効果は計りしれないものがあると思う。     
 

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